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2019年10月4日(金)育英講演会

第13回育英講演会 講演要旨

本年9月7日(土)、公益財団法人飯塚毅育英会主催の「第13回育英講演会」が栃木県宇都宮市で開催されました。飯塚毅育英会の奨学生などを対象に行われた講演では、Dari K株式会社の吉野慶一氏が講師を務めました。同社のこれまでの軌跡と奨学生へのメッセージを語った吉野氏の講演内容です。

プロフィール
吉野慶一(よしの・けいいち)
飯塚毅育英会の大学奨学生・海外留学支援奨学生OB。 1981年、栃木県足利市生まれ。佐野日本大学高等学校から慶応義塾大学経済学部を卒業後、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究科修士課程を修了。その後、オックスフォード大学大学院比較社会政策修士課程を修了し、投資銀行やヘッジファンドで金融アナリストとして活躍。2011年、カカオ豆/カカオマスの輸入・卸・チョコレートおよび菓子の製造・販売を目的とするDari K株式会社を創設。

モン族の少女との出会いが転機に
吉野 慶一氏

吉野 慶一氏

 大学生の頃は、バックパッカーとして世界50~60カ国を周遊するほど、旅に夢中でした。ミャンマーの首長族の村を訪れたり、ボリビアのウユニ塩湖やネパールの寺院など、いろいろな場所を旅行しました。なかでも印象深かったのが、ラオスを旅していたとき。そこで一人の少女と出会ったことが、私の人生のターニングポイントになりました。

 その少女は、モン族が民芸品などを売っているモンマーケット(モン族市場)で“売り子”として働いていました。外国人観光客は、彼女たちにとっての大事なお客さん。その一人である私に「お兄さん、お兄さん」と日本語で話しかけてきたのが、当時15歳のイエンちゃんでした。

 突然日本語で声を掛けられたことにびっくりした私は、「なんで日本語が話せるの? 学校で習ったの?」と聞かずにはいられませんでした。すると、「学校で習ったわけではないよ。そもそもこの地域に学校はないから」と答えてくれました。それならなぜ話せるのかと尋ねたら、恥ずかしそうにポケットから1枚の紙を取り出して見せてくれました。そこには「いち・にい・さん」「ありがとう」「いくら」「こんにちは」などと日本語が書かれており、たまに来る日本人観光客に聞いて教わったのだといいます。

 驚くことにイエンちゃんは、西洋人の旅行客が通りかかればまずは「ハロー」と声を掛け、それでも振り向かなければ次に「ボンジュール」と声を掛けたりと、複数の外国語を話せました。一方で、周囲にいる他の売り子たちは片言の英語をしゃべるのがやっと。イエンちゃんだけが特別な存在でした。

 この様子を見て、「大学の授業がつまらない」「何のために受験勉強をしてきたのか」などと、ネガティブな思考にとらわれがちだった自分が急に恥ずかしくなりました。イエンちゃんは「なんでこんな貧乏な国に生まれてきてしまったんだろう」と悲観することもなく、常に自分が何をできるかを考えて行動している。それに比べて自分は何なんだろう――。彼女との出会いを機に、私の学業に対する姿勢は大きく変わりました。まさにイエンちゃんとの出会いが、私の人生における分岐点の一つになったわけです。

 実はこの話には、後日談があります。社会人になって数年たったある日、新宿の辺りを歩いていると、ラオス観光ツアーのPRを目的とした、旅行代理店主催のセミナーを案内するビラを配っていました。久しぶりにラオスのことを思い出し、そのセミナーに足を運んでみたところ、なんとそこにイエンちゃんがいたのです。「ラオスの魅力をラオス人に語ってもらいましょう!」という司会者の言葉を合図に、イエンちゃんが姿を現したときは、鳥肌ものでしたね。

 たしかに彼女は、「いろんな外国人がここに来るけど、日本人は優しい。いつか日本に行ってみたい」と語っていました。それを聞いて私は「いつか行けるといいね」とは口にしたものの、内心は「到底無理だろう」と思っていました。ビザの取得も難しいだろうし、日本への渡航費を稼ぐのはラオス人にとっては容易ではないからです。それでも彼女は、自分の力でその夢を実現させました。おそらく日本の旅行代理店が、日本語を話せる現地人を探すなかでイエンちゃんに白羽の矢を立てたのでしょうが、「神様はいる、努力は報われる」と思わずにはいられませんでした。 

 いずれにしても、イエンちゃんとの出会いが「自分もまじめに勉強しなければならない」と心を入れ替える契機となり、それが英オックスフォード大学への留学にもつながりました。その後、外資系金融機関グループのモルガンスタンレーに就職し、金融アナリストの仕事をするようになりました。

インドネシア産のカカオに注目

 チョコレートの原料であるカカオとの出会いは、社会人3年目の2010年に訪れました。休日にたまたま立ち寄ったカフェで、カカオ豆の産地を記した世界地図を目にしたのがきっかけです。カカオの生産国は赤道付近に集中しており、最も生産量が多いのがコートジボワールで、2番目がガーナ。それに次いで多いのがインドネシアだと知り、「日本には『ガーナチョコレート』はあるけど、なぜ『インドネシアチョコレート』はないんだろう」と疑問に感じました。菓子メーカーに電話して「どうしてアフリカのガーナよりも距離が近いインドネシアからカカオ豆を輸入しないのですか」と聞いてみましたが、明確な回答は得られませんでした。

 当時は、アナリストとして活躍していた時期で、なにか疑問に思うことがあればそれを解消せずにはいられないタチでした。かつてバックパッカーだった私は、その答えを探し求めてインドネシア・スラウェシ島のカカオ農家のもとを訪ねました。

 答えはじきに分かりました。おいしいチョコレートを作るためには、カカオ豆を収穫した後に一度「発酵」させる必要があるにもかかわらず、インドネシアではその工程を省いていたのです。

 ガーナなど他の産地では、収穫→実の取り出し→発酵→乾燥→出荷という流れで生産をしています。ところがインドネシアでは、発酵させてもさせなくても買い取り価格が変わらなかったことから、農家はその手間を省いていました。しかしそれでは、品質の良いチョコレート原料とはならない。だから日本の菓子メーカーは、インドネシアのカカオを使っていなかったのです。

 学生の皆さんなら、その気持ちがよく分かるのではないでしょうか。授業に出ても出なくても同じ成績なら、おそらくみんな授業に出ないと思います。またビジネスマンの方も、頑張って仕事をしてもしなくても同じ給料なら、誰も頑張ろうとしないはず。それと一緒で、インドネシアのカカオ農家も、少しでも品質の良いカカオを作ろうという気持ちになれなかったのです。

 私はイエンちゃんのことを思い出して、この現状をどうにか変えられないものかと考えました。イエンちゃんは決して恵まれているとは言えない環境にありながらも、自分で努力して勉強し、日本に行くという夢をかなえました。他方、インドネシアのカカオ農家はいくら高品質なカカオ豆を作ったところで、結局は買い手の言いなりの値段で売るしかない状況に置かれている。頑張る人が報われないのは絶対におかしい――私はそう思い、金融業界をやめて、チョコレート業界に足を踏み入れる決意をしました。2011年3月にダリケーを創業し、インドネシア産のカカオを原料にした高級チョコレートの製造販売を始めたのは、こうした経緯からです。

 私が目指したのは、「生産者自らが努力してカカオの品質を高め、それを高く売れるようにするモデル」の構築でした。これは、一般的なフェアトレードの発想とは大きく異なります。一般的なフェアトレードの考え方は、発展途上国にいる生産者の商品が安い価格で買い取られてしまっているので、少しでも高い価格で買ってあげようというもの。それに対し、私が志向したのはあくまで生産者自らが努力することを前提としたものです。

カカオの「発酵」で差別化を図る

 インドネシア産のカカオを使ったチョコレートを販売する専門店を京都市内にオープンするにあたっては、カカオの発酵に関する強みを、自分たちの差別化ポイントとして打ち出す戦略をとりました。

 それまでの私のバックグラウンドは金融であり、お菓子屋さんではありません。おいしい菓子を作るという点では、技術面で劣ることは否めない。ならば、何を自分たちの特長として打ち出すかを考えたときに、思い浮かんだのが「発酵」でした。プロの菓子職人も、チョコレートはブロック形状で外部業者から購入し、それを溶かして使っていることが多い。しかし当社の場合は、生産者と一緒になってカカオ作りのところから付加価値をつけることが可能です。これが、シェフ(パティシエ)の技量の高さに匹敵する差別化要因になるのではないかと考えました。どんなに腕のよい寿司職人でも、鮮度が落ちた魚介類を使っておいしい寿司を握ることはできない。裏を返せば、技術面が多少劣っていたとしても、素材が抜群に良ければ、勝負になるのではないかと思いました。

 出店までの3カ月間は、発酵について必死で研究しました。発酵に関する文献を読むのはもちろん、おいしいチョコレートを作るためにはどんな発酵処理が最適なのかを探るために、何度も実験(カットテスト)を繰り返しました。そこから得たノウハウをインドネシアの農家の人たちに教え、高品質なカカオを作ってもらえるようにしました。

 そのカカオを焙煎して作ったチョコレートは実においしく、チョコレート専門店「Dari K」の評判は徐々に広がり、ホテルや百貨店などからも注文が入るようになりました。

 さらに創業してから4年後、パリで開催されるチョコレートの祭典「サロン・ド・ショコラ」に出展できたことも、店の評判を高めました。サロン・ド・ショコラは世界中の名だたる有名店が自分たちの作品を発表する場で、日本からは数えるほどしか選出されません。そこに製菓学校を卒業した者が一人もいないダリケーが入ったのです。これは、素材にものすごくこだわったら結果的においしいチョコレートが完成し、そのことが評価されたからにほかなりません。「インドネシア産のカカオは品質が悪いように思われているけど、実際はそんなことはない」という事実を広く世間に知らしめることができました。

現地で「チョコ作り教室」を開催
吉野 慶一氏

 ダリケーのチョコレートのおいしさの秘密は、発酵以外にもあります。チョコレートを食べたことがないインドネシアのカカオ農家の皆さんに、そのおいしさを知ってもらうための活動をしていることがその一つです。現地で「チョコ作り教室」を開催し、自分たちが作ったカカオがこんなにもおいしくなるということを体感してもらっています。

 カカオを石臼のようなものに入れて3時間くらい練り続けるとチョコレートになります。発酵していないカカオと、発酵したカカオで作ったチョコレートをそれぞれ食べ比べてもらったところ、発酵したカカオ豆のほうが断然おいしいとみんな感じてくれました。チョコレートを一度も食べたことがない農家に、おいしいカカオは作れない――私はそう確信しています。

 また、チョコ作り教室はインドネシアの小学校でも開催しました。カカオ農家の子どもたちが大半を占める小学校で、将来はどんな職業に就きたいかと聞いたところ、警察官、医者、学校の先生がトップ3で、カカオ農家をあげる子どもは一人もいませんでした。ところがチョコ作り教室を開催して、自分の親たちが作るカカオ豆がこんなにもおいしい食べ物になることを知ってもらうと、「将来はパティシエになりたい」「カカオ農家を継ぎたい」という子どもがどんどん出てきました。

 これらの活動は、なにもCSR(企業の社会的責任)の一環として行っているわけではありません。現地の農家のモチベーションを上げることによって、より高品質のチョコレート原料が手に入るという意味では、企業戦略の大家であるマイケル・ポーター教授が唱えた「CSV(共通価値の創造)」に近いものといえます。

日本の消費者は「ファミリー」

 他にも当社の活動には、毎年夏に日本人の一般消費者をインドネシアの農家のもとに連れていく「カカオ農園ツアー」があります。このツアーはもともとコアなダリケーのファンを増やすために始めたもので、カカオを収穫したり、植えたりする体験をしてもらっています。

 農家と消費者との間には本来、直接の接点はありません。「農家→コレクター(仲買人)→倉庫→商社→チョコメーカー→小売店→消費者」というサプライチェーンの最上流と最下流にあり、両者の距離は遠く離れています。しかしカカオ農園ツアーによって、農家と消費者とが顔を合わせる機会が生まれました。

 当社と提携する農園があるのは、インドネシア・スラウェシ島の中でも辺ぴな場所で、外国人観光客が来るのは珍しい。そんなところに、いきなり40人前後のツアー客を連れて行ったものだから、現地の人はあわてました。どうにかホテルは確保できたものの、食事については農家の自宅で食べさせてもらうことにしました。すると、最初は日本人のツアー参加者のことをゲストと呼んでいた現地の人たちが、次第に「ファミリー」と呼ぶようになっていったのです。さらに、「ファミリーに農薬まみれのカカオを食べさせるわけにはいかない」と言って、それまで何度もお願いしても聞き入れてくれなかった無農薬でのカカオ豆栽培を、農家の人たちが自発的に行ってくれるようになりました。

 当社はインドネシアの農家から直接カカオを仕入れているため、何かの原因でそれが届かないという事態になったら営業はストップしてしまいます。例えば、基準値を超えた残留農薬を理由に、国内への輸入を許してもらえなくなること等が、経営リスクとして懸念されていました。実際、日本の大手菓子メーカーや商社がこれで何回もアウトになっていたのです。だからインドネシアの農家の方に農薬を使わないでほしいと何度もお願いしていたのですが、なかなか首を縦に振ってもらえずにいました。

 ところがカカオ農園ツアーを始めると、みんな農薬の使用を自発的に減らしてくれるようになりました。農薬をまく代わりに、害虫の被害からカカオの実を守るために1個ずつ丁寧にビニール袋をかけるようになった様子を見て、非常に感激しました。

カカオ農家のお金の使い道

 一方で、私たちがインドネシアに行くだけでなく、現地のカカオ農家をバレンタインデーに合わせて日本に招待して、セミナーを開催したこともあります。

 大阪の百貨店で行ったセミナーでは、およそ300人の聴衆を前にカカオ農家の3人はぶるぶると震えていました。私はてっきり感動して震えているのかと思いましたが、あとで聞いたら寒くて震えが止まらなかったそうです。彼らにとって日本の冬は寒すぎたようです。

 このように、ダリケーがあったからこそ仕事のやりがいを感じることができた農家、あるいはダリケーがあったからこそ所得が上がった農家がたくさんいます。聞いてびっくりしたのですが、インドネシアのカカオ農家の所得はダリケーと付き合うことで1.5倍から2倍ほど増えるそうです。それは当社の買い取り価格が高いことに加え、どうしたら生産性が高まるかをしっかり教えるため必ず所得が上がるのです。しかしその半面、カカオに対する要求レベルが高いので、生半可な気持ちではできません。

 あるとき農家の方に、収入が増えたぶんで何を買っているのかと聞いてみたことがあります。私は「オートバイを買った」「テレビを買った」といった答えが返ってくるかと想像したのですが、最も多かったのが「子どもの教育費」でした。今までの収入では高校までしか通わせることができなかったけれど、収入が増えたので例えばジャカルタやスラバヤの大学に通わせることができるようになったといいます。これを聞いて、「カカオ農家の収入を上げると、教育レベルの向上につながる」ということに気付きました。

「気候変動」から農家を守るために

 2016年には、インドネシアに現地法人「PT Kakao Indonesia Cemerlang(PT KIC)」を設立しました。この現地法人を作って駐在員を置いたことにより、「ダリケーはこれからも自分たちと一緒にやってくれる」というカカオ農家の安心感につながったようです。

 そうした中で、気候変動への対策にも取り組むようにもなりました。エルニーニョ現象が発生すると、東南アジアでは雨が降らなくなります。雨が降らないと、地中の養分が木に行き渡らなくなり、カカオの実が小ぶりになったり、害虫の攻撃を受けやすくなります。時にはカカオの収量が3~5割減少してしまうこともあり、農家にとっては大きな痛手となります。世界の相場で買い取り価格が決まるカカオの場合、インドネシア国内の収量が下がったところで価格は上がりません。つまり需給バランスが働かないのです。

 そのための対策として私たちが提携農家の人たちに提案したことが2つあります。一つは、「農作物のポートフォリオ(アグロフォレストリー)」の実践。農園の約50%はカカオの栽培に当てるものの、それ以外にもバナナ、ココナツ、パイナップルなど、約15種類の作物を植えることで気候変動へのリスクヘッジを図ってもらいました。これの良いところは、複数の種類の葉っぱが落ちることでいろいろな栄養分が地中に入ることから、肥料の散布量が少なくて済むようになる点にもあります。結果として農家の支出は減り、そのぶん可処分所得が増えます。

 そしてもう一つが、「国際相場から切り離したプライシング」です。カカオの国際価格の変動に左右されることなく、当社が固定価格を提示し、その金額で買い取るようにしました。ただし、当社が示した「スタンダード7カ条」(アグロフォレストリーの実践、児童労働や強制労働がない、発酵の徹底など)のうち、7カ条全て守れたらこの金額、5~6カ条だったらこの金額といった具合に、条件に応じて差を設けています。ちなみに、4カ条以下の場合は「買い取り不可」としています。

「自利利他」の思想を受け継いでほしい

 私から皆さんへのメッセージは、「これをやってみたいんだけど一歩踏み出せない」という状態にあるときは、失敗を恐れずにぜひ前に向かって進んでほしいということです。私も、ダリケーをやるかやらないかで随分と悩みました。ダリケーをやれば「インドネシアの農家の役に立てる」ということが期待できるものの、「カカオ栽培・農業のノウハウがない」「チョコ製造のイロハを知らない」といった不安要素がいくらでもありました。それでも起業して今の自分があるわけですが、ダリケーをはじめたことでいろいろなことを知ることができ、起業して本当によかったと思っています。

 米国の発明家・エジソンも「私たちの最大の弱点は諦めることにある。成功するのに最も確実な方法は、常にもう1回だけ試してみることだ」と述べていました。私も“不撓不屈”の精神で信念をもって諦めずにやっていればきっと望みはかなうと信じています。「できないから、やらない」は言い訳に過ぎません。たとえ今すぐにはできないと思っても、決断して走り始めると応援してくれる人がどこからか現れるものです。

 ただし、それには一つだけ前提条件があります。社会のためになったり、世の中に貢献できる取り組みでなければ、応援者は出てきません。自分の利益しか頭にないような人を、誰も応援しようとは思いませんから。TKCの創業者である飯塚毅先生は「自利トハ利他ヲイフ」という言葉を大切にされていましたが、それと相通じるところがあります。

 奨学生の先輩である私の話は、少し特殊な事例かもしれませんが、皆さんもせっかく飯塚毅育英会からチャンスを頂いて学ばせてもらっているわけですから、飯塚毅先生の思想を受け継いで、ぜひそれを実践していってほしいものです。

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